T さみしがりやのうた
月のない夜だった。
耳に痛いほどの静寂が先程までの喧騒を覆い隠し、夜の森を完全な秩序のなかに置いていた。
月のない夜だった。
気味の悪い呪いのように風は在ることをやめ、踊る力を持たない木や草は、ただただ沈黙するばかりだった。
月のない夜だった。
なのに、ぽつぽつと蛍を散らしたような空の一点を、じっとみつめる男がいた。まるでそこに見えない月が見えているかのように、じっと。
しん、と静まり返った森には、他に生き物らしき気配はない。聞こえるはずの虫たちの声や、獣のささやきすら聞こえないのに、彼はそれを訝る様子もなく、ただ月を見つめていた。
「……また、ひとりぼっちになっちまったなぁ」
目を細め、悲しげに眉を寄せながら、彼はつぶやいた。その目にはやはり、そこにはない光の円が映っているようで、視線は少しも動かない。
「だれか……いてくれねぇかなぁ……俺、ひとりぼっちって苦手なんだよ」
ほとんどささやきに近い声が、ひどく辛そうに響く。それは森を支配する静けさのせいなのか、彼自身の苦しみのせいなのか。
「……あんたもそうだろ?いつもひとりぼっちで、ほんとは寂しくて死にそうなんだろ……?」
呼びかけの相手は、彼にしか見えない空の月。うたうような言葉は、その言葉どおりに死にそうなくらいの寂しさを持っていた。
それでも月がその姿を見せることはなく、ささやかに、しかし無数に輝く星たちが、男を見下ろして笑っていた。
「……そっか。あんたはひとりじゃないんだな」
そこで彼は小さく息をつき、はじめて月から目を離した。視線の行く先は、革の手袋に包まれた彼自身の手。
「……俺、寂しいんだよ……」
消え入りそうな声が、夜のなかに溶けていった。
旅の途中の彼を襲った山賊たちは、彼自身の手で物言わぬ骸へと変えられていた。嫌な空気を感じたのだろう、周囲の動物や虫たちは、いつのまにか気配さえしなくなっている。山賊を退治するのに力を貸してくれた風の精も、一仕事終えてお休み中のようだ。
だれも、いなかった。彼はひとりぼっちだった。
赤い臭いが満ちる森で、彼はもう一度つぶやいた。
「俺、寂しいんだよ」
月のない、夜だった。
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