8:忌むべきもの
「はぁ、はぁ、はぁ」
走る。どこまでも、息の続く限り。
走る。がくがくと、今にも崩れそうになる膝を動かして。
――誰もいなくなった教室、皆の、そして自分の名前が刻まれた黒板。
校舎前に横たわる、ゴミのように打ち捨てられた、池田勇の――死体。
嫌な映像が、頭の中に交互に映し出される。
(いやだ、死にたくない…いやだ…)
この理不尽な状況を拒む想いだけが、山本信幸(男子20番)を動かしていた。
一番最後に校舎を出てからずっと、この見通しの良い道路を走ってきたが、誰に会うことも、ましてや襲われることも、なかった。学校の前に広がる森林の方が安全そうにも見えたが――逆に、隠れて待ち伏せる者がいる可能性を考えると怖くなり、視野で安全を確認できるこちらを選んだのだ。
あまり賢い判断だったとは言えないが――結果的には正解だったのかもしれない。すくなくとも、今のところは。
少しばかり安心し、意識していなかった周囲に目を向ける。
「……あっ」
信幸は足を止めた。
目の前は港。淡い月明かりを反射し、暗い海がゆっくりと波打っている。
――泳いで逃げよう。一瞬だけ、そう思った。
運動はてんでダメな信幸だったが、視力には自信がある。そう、その視力ゆえに、彼は『それ』の存在に気づいてしまったのだった。
――それは。軍艦、だった。軍艦などと言うものを直接見たことはないが、少なくとも、泳ぎ着いて助けを求めれば何とかなる、なんて相手には見えなかった。
少しだけ浮き上がった気持ちが一気に落ち込み、忘れかけた恐怖が再び暗雲のように立ちこめた。
「うっ……うう……」
嗚咽とともに、頬を涙が伝った。
(もう嫌だ…嫌だ……!!)
がくり。硬いアスファルトに膝をつく。
同時に教室で受け取ったデイパックが地面に当たり、鈍い音をたてた。
(あ……そうだ、武器……)
すべきことを思いついたおかげか、少しだけ生気を取り戻し、生きる希望を見つけるべくデイパックをあさる。
一緒に持ってきた私物のリュックには、食料になりうるお菓子の他に使えそうなものは入っていない、これだけが頼りなのだ。
がさっ……かさかさっ。
薄い食パンやミネラルウォーターの奥から出てきたのは、油紙に包まれた、楕円形の鉄塊だった。
「……なんだ……これ……」
かさかさと、油紙を剥いて中身を取り出す。
「……何だ…?……あ!ああ、これ……っ!!」
驚きと焦りで一瞬取り落としそうになり、あわててつかみ直す。
手のひらに収まる程度の、ひんやりとした塊――手榴弾、だ。
「…………」
(こんなもの、使えない……僕には人殺しなんか……できない……)
180センチ近い身長、100キロ超の巨体は、いつもいじめの対象だった。このクラスでも、神山良樹などの物好き達にからかわれることは日常茶飯事だ。
だからといって――そんなこと、本能的な人殺しへの禁忌を克服できるほどの恨みではない。なんだかんだとからかわれても、世間で聞くいじめとは比較にならないほど軽いものだったし、時々は見かねて助けてくれるクラスメイトだっていた。
そして――そう、人殺しなんかしたら、彼女に嫌われてしまう。
一度だけ、擦り傷の治療で訪れた保健室で目にして以来、ずっと憧れている、彼女に。
目に焼きついたその姿を思い浮かべると、少しだけ、安らいだ気分になれた。
もちろん、自分などが――運動音痴の、鈍間なデブである自分が、彼女につりあうなどとは思っていない。
だが。
(――彼女と一緒なら――死んでも、いいかもしれないな)
不思議と何の恐怖もなく、そう思えた。
その刹那だった。
タタタタタタタッ
跳ねるような、軽やかな連続音が空気を裂いた。
信幸の背後、割と離れた所から、鉛の弾頭が真っ直ぐに走ってきた。
そしてそれのほとんどは闇の中を遠く突き進み、ごく一部だけが信幸の脇腹を通って運動エネルギーを削がれ、数メートル先で地にめりこんだ。
「う、あっ」
信幸は苦しげな声をあげ、銃弾の持つ慣性に従って前向きに吹っ飛び、顔面から地面に着地して倒れこんだ。
左半身、特に腹部に近い辺りが、燃えるように熱い。
それが痛みであることに気づいたのは、体に空いたいくつかの穴から吹き出す、夜目にも鮮やかな血を見てからだった。
「あ…あ、あああああっ」
「――へぇ、思ったより当たらないものね……反動の大きさも予想外だったし……ね」
澄んだソプラノの、そして明るく何気ない様子のその声に、信幸の悲鳴が一瞬止んだ。
(この……この声っ)
歯を食いしばって痛みに耐え、ずるりと地を這いながら向きを変える。
「あ……あ、く、九条、さん」
そう、教室には一度たりとも顔を出したことのない、九条香織の姿がそこにはあった。
自然な緩いカーブを描く長い髪、作りの小さな鼻と唇、甘い、という表現がぴったりの、わずかに潤んだ誘うような瞳。
信幸が初めて見たときの、清純な、いわば天使のような雰囲気とは差がある気がしたが、それは妖艶で麗しい、美の女神のような美貌。信幸を魅了するには十分だった。
必死に言葉を紡ごうとする信幸を見下ろし、香織は――信幸にとっての『憧れの君』は、口の端を上げ、妖艶に微笑んだ。
「私の名前、覚えててくれたの」
「あ…う、うん…」
喉元が熱い。が、喋れないほどじゃない。ずっと憧れていた人と話しているのだ、気にしている場合ではない。
もしかすると、脇腹の負傷が――あるいはこの状況からの恐怖が、思考回路に影響をもたらしていたのかもしれない。
今の信幸に、自分の生死が危ういという事実は何の意味も持たなかった。
「話すの、初めて……よね。覚えてくれてたなんて、嬉しいわ……」
そして香織もまた、信幸のおかれている状況など目に入っていない様子で――街でたまたま出会った友人に話しかけるような、何の気負いもない様子で話しかけていた。
「ぼ、僕も…九、条さん、と、話せてう、嬉、し、しいよ」
言葉が途切れるのは緊張のせいか、それとも時折這い上がる血塊が喉を圧迫するせいか。
「ありがと……最初で最後……でしょうけど、ね」
「……え?」
意味を計りかねて、信幸は訊きかえす。
「……山本君、忘れたの?私たちが今、どこにいるのか――何をさせられているのか――」
わずかに眉を上げてそう言い、右肩に吊ったモノを――ストラップに下がる、冷たそうな直線で構成された独特の姿を、誇示するかのようにゆっくりと持ち上げてみせた。
――IMIミニウージー。世界に広く出回っている短機関銃・ウージーの小型版だ。
ウージーと比べると1kg近く軽いので、香織が両手でとは言え持ち歩けているのはそのためだろう。
装弾数は32発、かなり多いと言えるが、この銃の連射速度ではあっという間に撃ちつくしてしまう。
――もちろん、それだけの量の弾丸を一瞬でばら撒くのだから、反動も強く、香織のような女子が完全に抑えきれるわけがない。だから先ほどの香織のセリフどおり『思ったより当たらない』のである。
とは言っても――いや言うまでもないことだが、この至近距離でそれだけの鉛弾が放たれれば、無事ですむ保証はない。むしろ、生きていられる可能性は極めて低いと言えるだろう。
「あ……っ」
はっとした様に信幸が呻く。
恐怖が、再び――いや三度、信幸の心に湧き上がった。
「残念だけど、私は死にたくないの。まだたった15年しか生きていないのよ、やりたいことは沢山あるし……」
これまでの人生、一人で外に出してもらえたことなんてないんだから。
そんな香織の思いを、信幸が知るはずもない。だが、自分同様にこの状況を拒んでいることは、わかった。
しかし。
「だから、山本君、悪いけど」
本能が悟った。香織の次の言葉を聞いた時、自分は死んでいる。
(――――!!)
右手が、冷たい感触を探り当てた。丸い金属の輪に、指がかかった。
――気づいた時には、出せ得るかぎりの全力で、それを引き抜いていた。
「私のために、死んで」
ピンを指にかけたままの右手でアスファルトの地面を押し、半身を起こす。
「――!?」
ミニウージーの銃口が少し角度を上げ、信幸を追う。
「っ…………あああああああああっ!!」
左手を振りあげる。
「く……っ!!」
香織は美しい顔を歪め、全力で地を蹴って走った。途中でミニウージーを放り出し、何メートルか先に広がる暗い水面へ。
信幸は、腕を思いっきり振り下ろし、それを――手榴弾を、放った。
香織の方にではなく、彼女と自分との、ちょうど中間あたりに。
(九条さん……僕も、一緒にいくから)
だんっ。
地を叩く音は、香織の物か手榴弾が立てた音か。
ほぼ同時か、一瞬だけ遅れて、視界いっぱいに白い光が広がった。
――轟音。
……ざばっ。
水音と共に、ずぶぬれの人影が地面に這い上がった。
「はぁ…はぁ…っ」
あの男。この私を、殺そうとした。
香織の顔は、憎悪に歪んでいた。
しかし――幸運だった。あの時、手榴弾が直接自分へと投げられていたら、飛び込むのは間に合わなかった。確実に死んでいた。
水滴を従えてアスファルトを踏みしめる。――生きている。
視線を前に向けると、地面が凹んだ爆発の跡から離れた場所に、信幸だったモノが横たわっていた。
そしてちょうどソレの対角線上、爆風で飛んだのかかなり離れた場所に、ミニウージーが落ちていた。
――本当に幸運だ。
笑みを浮かべて歩み寄り、手に取る。傷や汚れは酷いが、致命的な故障になりそうな損傷は見当たらない。
埃まみれのストラップを軽くはたき、先ほどと同じように右肩に吊る。
これで元通り――いや、確認しておいた方がいい。
わずかに迷ったあと、ちょうど良い的――打ち捨てられた死体に向かって、引き金を引いた。
タタタッ。
サブマシンガン特有の軽い銃声が響き、弾丸も先ほどと変わらず発射された。
我知らず、ふっと笑みが浮かび――すぐに、それは苦痛の表情に変わった。
「――あ…っ、ああっ……!」
額を押さえてうずくまる。
(何で……こんな、時に……っ)
しばらく、香織はそうしていた。――それは、信幸を襲い、結果的に死に追いやった自分自身に苦悩している様にも、見えた。
――顔を上げた。
「……あ……ここは……?」
首をめぐらせ、香織はすぐに信幸の死体を見つけた。とたん、表情が強張る。
「私……そう、『私』が……やったのね……」
涙が、頬に落ちた。
純粋にその死を悲しみ、悼み、そして自分自身に対する侮蔑の涙だった。
――数分か、それとも数秒だったかもしれない。
長いような短いような一瞬の後、香織は涙を拭って歩き出した。
草むらに隠して置いた自身の荷物、そして信幸の遺したディパックの存在が頭に浮かんだが、取りに行く気にもなれなかった。
そんなことをして生き残っても、哀しいだけだ。私は人殺しなんかしたくないんだから。
再び涙があふれたが、今度は拭いもせず、真っ直ぐ前を向いて歩き続けた。
どこへ行くでもなく、何を目指すでもなく。ただ、ひどく重い感情からか、無意識に歯を立てた唇に血をにじませて。
どうしようもなく、自分が憎かった。
男子20番 山本信幸死亡 残り36人
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