9:ときときずな
――絵を、描きたい。
こんなに強く思ったのは、生まれて初めてではないだろうか。
目の前は、崖。今立っている位置から十歩も歩けば、そこはもう何もない虚空だ。
(――綺麗――)
そう、思った。
「……優ちゃ……ちゃん……優ちゃん!!」
――はっ、
意識が現実へと引き戻された。
「優ちゃん!!……大丈夫?」
気遣うような、優しい声。
「あ……あ、あ、うん、大丈夫だよ……」
小さく息をついて、御手洗優香(女子16番)は眼鏡ごしに相手を見つめた。
しばらく、ぼーっとしていたようだ。幼馴染であり優香にとっては保護者にも等しい、宮間尚樹(男子15番)は、申し訳なく思えるほど心配そうな表情だった。
「大丈夫だってば。……ただ、ちょっと――絵を、描きたくなっただけ」
「――へぇ、珍しいね」
驚いたように、だが嬉しそうに眉を上げる尚樹に、ふふっ、と苦笑にも似た微笑を浮かべる。
そう、優香が自ら絵を描きたがるなど、珍しい――どころか、最近ではありえないことだった。
彼女は、『天才』だった。持つ才能の方向こそ違うが、それは戦闘行為に対する流川夜深、人を騙すことに対する鯊谷聖戯のそれを超える、この大東亜――どころか世界中でも稀に見る、『天才』だった。
両親ともに芸術に携わる人間で、幼少からそれに携わっていたこともあるのだが――そんな環境を差し引いても余りあるほどの才能。優香は、『絵』の天才だった。
モデルに忠実でありながら、独特の歪みを持ったその油絵の技術は、大東亜中の芸術家達をして『近代のゴッホ』とまで言わしめたほどだ。
だが――去年、ちょうど2年に上がったころだっただろうか。
優香は、突然、絵を描くことをやめた。
何故なのかは、はっきりとはわからない。ただ、――絵を描くことが怖くなった。それだけは、はっきりとわかる。
将来を期待される『画家』なのだから、両親の説得などと言う手段を使って、絵は描かされた。だが、そのどれも以前以上の評価を得ることはなかった。
もともと情緒不安定気味で、いきなりヒステリックに叫びだすことさえもあった。だが、こんなことは、初めてだった。
「何でかな、――怖くなくなった。絵を、描くってことが」
「――残念だね。せっかく優ちゃんが描く気になってくれたのに、道具がないや」
悪戯っぽく、だが本気で残念そうに、肩をすくめる。
(尚君がいてくれるから――かな)
思い、少しだけ、照れる。
実際、こんな状況下で優香が狂気に陥らなかったのは、彼のおかげだと言える。
出席番号はちかいとはいえ、間には二人――皆に愛想良く接している水野桜はともかく、『自由主義』とやらを語る、いまいちよくわからない男、本宮晴彦が挟まっている。
怖くなかったはずがない。幼少から共に過ごしてきた優香には、彼がそんなに強い人間でないことは、よくわかる。
なのに――待っていてくれた。自分を、心配して。信じて。
「尚君――」
不意に、優香は言った。
「え、――と、何?」
少し驚いたように、尚樹は訊き返す。
「ありがと、ね」
「……?」
「最期に、それだけ言いたかった」
「――優ちゃん――」
そう、もう決断は済んでいる。皆が死ぬのは見たくないし、殺すことも望まない。幾度か聞こえた銃声も、二人とも、あえて口には出さず、聞かない振りをしている。
もうすぐ、6時――最初の放送は、すぐだ。それが始まる前に、と、決めた。
あの忌々しい死神が居る学校から出て、この見晴らしの良い山頂の崖に辿りついて、数時間。ずっと話し合っていたし、何度もお互いの決意を確認した。
尚樹の武器である短めの日本刀、『小太刀』も、優香に支給された、かなりの『アタリ』といえる武器――『チーター』の異名を持つ自動拳銃・ベレッタM84も、手の届かない位置まで離して、放置してある。
――もう、迷う理由は無い。絶対に。
「でも、ちょっとだけ、待って」
言って、デイパックではなく、自分の私物の入った大きなリュックを開ける。
「――?」
不思議そうな顔をする尚樹を横目に、中をあさり――無地のノートと、ペンケースとを取り出した。
スケッチ用の、濃い目の鉛筆を取り出し、ノートの上をさらさらと走らせる。
――数分。
「できたっ」
言って、ノートを裏返して尚樹に見せる。
「――人物画は専門外だって、前に言ってなかったっけ?」
少し照れた様に、尚樹は言った。
「ふふ……特別。これが、最後の一枚だから、ね」
「……優ちゃん……本当に、後悔しない?」
「するわけ、ないよ。何度もいったでしょ?――尚君こそ、いいの?」
逆に問い返され、尚樹は苦笑する。
そのまま優香の肩に手を置いて、
「――ゴメンね、俺に、力がなくて」
「そんなことない――」
二人の感情は、決して恋愛感情というものではなかった。だが、何よりも強い、『絆』とでも言うべきものが、二人にはあった。
――だから、後悔なんて、するわけはなかった。
「尚君と一緒なら、平気だよ。私、何も怖くない――今、わかった」
「――優ちゃん」
肩をつかむ手に力がこもり、そのまま背中に下りる――ぎゅっ。
硬く、二人は抱きしめあった。小さい頃、父や母がよくそうしてくれたように。お互いの体温を確かめ合い、生きている証を求めるように。
「行こうか――」
言ったのは、優香と尚樹、どちらだったか。しかしそんなことは、何の関係もなかった。
ただ、互いが生きていて――そしてこれから死ぬのだと、それだけを思っていた。
――そして。
パァン……。
乾いた音が、優香の鼓膜を震わせた。
「――え?」
ぐらっ、
自分を抱きしめる尚樹の体が傾ぎ、重力にしたがって下へと――崖の下、暗く揺れる海へ向かって、自由落下を始めた。
尚樹の胸に埋めていた顔を上げると、その視線は焦点が合わないまま、何もない宙に縫いとめられていた。
(何――何が――)
パンッ。
思考がまとまらないうちに二度目の銃声が優香の頭蓋を貫き、勢いで二人の体はより海側へと飛ばされ――そのまま、奈落の底のごとき水面へと、吸い込まれていった。
真っ直ぐに伸ばした両手の先、わずかに立ち上る硝煙の向こうに、それぞれ胸部とこめかみ辺りから血を吹き出しながら落ちていく姿が見えた。
(――当たった――みたいだな)
こんなに簡単に当たるものだとは、正直以外ではあった。が。
どちらにせよ、これで自分の生存確率は大幅に上がった。銃――そう、生きることなどそっちのけで抱きしめあっていた二人の、どちらかのものであろう、ベレッタ84を手に入れたことで。
彼女は、二人がすでに死ぬ決意を固めていたことなど、知る由もない。二人のかすかな話し声は、陽香の耳にはいるにはあまりにも弱すぎた。
――悪くない、他人の命を奪うという感覚は。
暗い喜びを胸に抱き、長柄陽香(女子13番)は、薄く笑みを浮かべた。
と、
ぱきっ。
音がした。
(誰だ――!?)
声には出さずに、急いで振り向く。
陽香に気づき、見つからないうちに逃げ出そうとしたが、失敗した、そんなところだろう。あわてた様子で踵を返し、最早物音など気にする余裕もなく走り去る姿が、見えた。
ブレザーに、ひだスカート。女生徒。そして――二つに分けてくくられた、長い長い髪。
(――九十九沙希――!!)
その正体を確認すると同時に、陽香はブレザーの内ポケットから『武器』を取り出した。
銃器ではない、が、ある意味では大当たりとも言える、それ。
起動スイッチを指で押しながら、ささやく。
「――聞こえるか、高橋?」
『はい、感度良好ですよ』
答えは、ほとんど間をおかず返ってきた。
自分達をこの地獄へと送り込んだ、忌まわしき死神。
だが陽香はその声に、笑みさえ浮かべる。
「――女子12番、九十九沙希――」
その『武器』を発動させる、最後のキーワード。
だが陽香は、一瞬の躊躇の後、それを飲み込んだ。
「いや――やっぱり、いい。ここで使うのは、勿体無いな」
『――そうですか。では、また。いつでもお待ちしておりま』
セリフを最後まで聞かず、回線をつなぐスイッチから手を離す。声が途絶えた。
――そう、あいつにコレを使うのは、もっと後でいい。
再び『武器』を内ポケットに戻し、陽香は笑んだ。
(九十九沙希――お前は、絶対に、私が殺す)
轟。
風が唸り、陽香が居る場所よりも崖側、さっきまで優香と尚樹が座っていた場所に落ちていたノートが、バサバサと音を立ててめくれた。
なんとなく興味を持って、それを拾い上げる。
人間の、絵。鉛筆だけで、サラサラと描かれた、ラフスケッチのようなもの。
(御手洗優香――そういえば天才画家とか言われてたな……)
それは、確かに天才と言えるものだと、絵画など好きでもない陽香にもわかった。
似顔絵だった。人目で誰なのか分かるほど、上手だった。
(あいつら――付き合ってでもいたのか?そんな噂、一度も……)
二人がどんな時間を共有してきたのか、恋でも愛でもないその絆がどんなものだったのか。もちろん、陽香に知りえることではない。
ノートをばさりと地面に落とし、
「くだらない」
一言だけ吐き捨て、優しく微笑む宮間尚樹が描かれたそのノートの表紙をぐっと踏みにじり。
二人のデイパックを拾うべくして、陽香はその場を後にした。
男子15番 宮間尚樹死亡
女子16番 御手洗優香死亡 残り34人
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